すべてはシナリオ⑥
- 美羽~miu~

- 11 分前
- 読了時間: 5分
前回、自由意志があることと
≪すべてはシナリオ≫
であることは矛盾しているのではなく
ただ
見ている領域が違うだけなのかもしれない
そんなところへ辿り着きました
そして、この
「見ている領域」というところから
もう一度 ≪すべて≫ という言葉を見てみたとき
わたしは
ひとつとても大きなことに氣がつきました
振り返ってみれば
わたしは長い間
彼との出逢い
魂が融合するようなあの体験
クンダリーニ覚醒
そうした
自分の意志だけでは説明できないような出来事を
「ツインレイのシナリオ」
そんなふうに捉えていました
おそらく、
ツインレイと呼ばれるような体験をしてきた人の中にも
出逢ったこと
説明のつかないような体験が起きたこと
離れたこと
再び出逢ったこと
そうした出来事に
「魂のシナリオ」
を感じている人も多いのではないかと思います
わたしも
そうでした
だから
ハイアーセルフから ≪すべてはシナリオ≫ と伝えられたときも
どこかで
「やっぱり彼との出逢いは決まっていたんだ」
「この一連の出来事にはシナリオがあったんだ」
そんなふうに受け取っていました
でもそれは ≪すべて≫ の中から
当時のわたしが 「ツインレイ」 という部分だけに焦点をあてて見ていただけでした
でも
今になって思うのです
なぜなら、ハイアーセルフが伝えていたのは
≪ツインレイはシナリオ≫
ではなく
≪すべてはシナリオ≫
だったのです…
ここまでは
スピリチュアルの世界でも比較的よく語られていることだと思います
でも
わたしが今 すべて という言葉から感じているものは
もう少し違うのです
人生そのものにシナリオがある
「何が起きるのか」
「どんな人生を歩むのか」
その出来事や流れがあらかじめ在る
というところまでなら
まだ
「人生というシナリオ」
と
「そのシナリオを生きているわたし」
が、分かれて存在しています
でも
すべて なのだとしたら
その
シナリオを生きている「わたし」だけを
すべて の外側に置くことはできない
願っているわたしも
迷っているわたしも
傷ついているわたしも
癒しているわたしも
潜在意識を書き換えているわたしも
自分で考え
自分で選び
「わたしが人生を変えた」
と感じているわたしも
すべて
≪すべて≫の中に在る
そして、⑤で書いた 「領域」 というところから見てみると
・現実を投影しているわたし
・潜在意識を書き換えているわたし
・投影される現実が変わったと感じているわたし
・「わたしが選んでいる」 と感じている自我領域のわたし
・それをホログラムとして理解しているわたし
さらに、それらすべてを
・「異なる領域のホログラムとして、いまここに在るのかもしれない」
と見ている領域の今のわたし
そのどれもが ≪すべてはシナリオ≫ の中に在る
そして
ここでとても大切なのは
それらを
「昔のわたし」
「今のわたし」
「これからのわたし」
として、時間の上に並べているわけではないということです
過去も未来も「いま」から離れたどこかにあるのではなく
異なる領域として
それらを含めた領域のすべてが、いまここに同時に在る
だから、過去があると信じる領域(波長域)から見れば
「あのときの選択が今のわたしを作った」とパラレルシフトした、と映るかもしれない
また別の幾多の未来があると信じる領域(波長域)から見れば
「願った未来を自分で選んだ」という引き寄せ、に映るかもしれない
そして
また別の領域から見れば
「すべては初めから在った」と映るのかもしれない
どれかが正しくて
どれかが間違っている
ということではなく
映し出された世界を見ている領域(波長域)が違うだけ
なのだとしたら
わたしが長い間
「ツインレイのシナリオ」だと思って見ていたものも
シナリオとしてのホログラムの中に同時に存在し
それぞれの別の領域から見ていたのにすぎないのかもしれません
スピリチュアルの世界では
「この世界はホログラム」という言葉で
自分の内側が外側の現実として映し出され
内側が変われば現実(ホログラム)も変わる
そんな意味で使われることがあります
わたし自身も
潜在意識を書き換え
自分の内側を癒し
それによって
現実が変わった、パラレルしたと感じる体験を何度もしてきました
だから
その捉え方を否定しているわけではありません
ただ
今ここでわたしが使っている
「ホログラム」は、それを指しているのではありません
現実を投影しているわたし
現実を書き換えているわたし
現実が変わったと感じているわたし
それをホログラムだと理解しているわたし
それら領域すべてを含めて
一人の人生そのものの、魂のシナリオの各領域がホログラムの中に在る
つまり
「わたし」という存在が、ホログラムの外側にいて
現実というホログラムとして投影されている、ということではなく
現実を映し出していると思っている、その領域の「わたし」さえ
ホログラムの中にすでにはじめから存在している
だから、以前から思っていた
「人生にはあらかじめポイントポイントでのシナリオがある」
という捉え方に違和感があったのも今振り返れば頷けるのです
なぜなら
それをするとポイント以外は自由意思で選べるように映るからです
ある程度はシナリオでも
大枠はシナリオでもなく
『すべてはシナリオ』であり
そして起こることすべてが
『すべては シナリオ通り』 とさえ、受け取っているのです…
では
そのすべての領域を見ている「本当のわたし」が
最後にはホログラムの外側にいるのでしょうか
そう考えたとき
わたしは、以前体験したあることを思い出したのです――


