「委ねる」から「委ねる者も、委ねる先もない」へ
- 美羽~miu~

- 2 時間前
- 読了時間: 3分
スピリチュアルの世界では
「宇宙に委ねる」
「流れに任せる」
「サレンダーする」
そんな言葉をよく耳にしますね
でも
「すべてがすでに在る」
というところまで見ていったとき
「委ねる」という意味さえ
捉え違えていたことに気づきました…
「宇宙に委ねる」
そう言ったとき
そこには
委ねる「私」と
委ねる先である「宇宙」があります
私と宇宙
私と大きな流れ
私と人生
そこにはまだ
「私」と「私ではないもの」
という分離があります
そしてもうひとつ
私たちは時々
「手放せばうまくいく」
「執着を手放せば願いが叶う」
「委ねれば流れに乗れる」
そんなふうにも言われます
でも
「委ねる」ことによって
望む結果へ辿り着こうとしているのだとしたら
それはもしかすると
サレンダーという形をした
もうひとつのコントロールなのかもしれません
願うことも
握ることも
手放そうとすることも
どうしても手放せないことも
委ねようとすることも
委ねられず何度も抵抗することも
そして
あるときふっと力が抜けることも
そのすべてが
壮大なひとつのストーリーとして
すでに在るのだとしたら
そもそも
サレンダーとは
「私」がするものなのでしょうか
私たちは
この世界を
肉体を持ったひとりの「私」
ひとつの「個」として体験しています
私は私
宇宙は宇宙
目の前で起きる出来事も
出逢う人も
自分とは別のものとして体験しています
個としてこの世界を体験するからこそ
私と宇宙
私と人生
常に
「私」と「私ではないもの」
という分離が生まれるのです
だから
「私」がいて
委ねる先がある
「私」がいて
信頼する何かがある
「宇宙に委ねる」
ということも
この分離の中では
とても自然なことなのだと思います
でも
その分離そのものが
個としてこの世界を体験するために生まれているものだとしたら?
もっと深いところでは
その「私」も
起きている出来事も
出逢う人も
願いも
選択も
抵抗も
手放すことも
すべてが
分かたれることなく
総てとして在るのだとしたら…
「私」と「宇宙」は
本当に別々なのでしょうか
「私」と「人生」は
本当に分かれているのでしょうか
だとしたら
「私が宇宙に委ねる」
ということさえ
本当は少し違うのかもしれません
握っていることも
抵抗することも
手放そうとすることも
委ねようとすることも
そのすべてが
分かたれることなく
ただ
総てとして在る
そう考えると
サレンダーとは
何かを手放すことでも
何か大きなものに人生を委ねることでもないのかもしれません
引き寄せも
心理学も
自己啓発も
潜在意識も
現実創造も
ホログラムとしての世界も
それぞれを通して
そのすべてを超えていった先では
何かを引き寄せる私も
未来を選ぶ私も
現実を創る私も
人生を委ねる私も
その境さえ
意味を失っていく…
幻の世界が消え
「わたし」という「個」さえも消え
ただ
「イマ」 という
「刻(トキ)」 が存在するだけ…
そこには
幸せも
恐れも
なにもない
それでいて
非・恐怖の安堵感
委ねる先もなく
委ねる者もなく
個でありながら
常に総てでも在る
そこには
「委ねなければ」
ということさえ必要のない
無条件の信頼
全托
握っていても
抵抗していても
迷っていても
委ねられなくても
それさえも
総てから外れていたわけではない
そもそも
離れていたことなど
最初からなかった
だとしたら
サレンダーとは
「私」が何かをすることではなく
ただ
総てが総てとして在る
そこにはもう
「委ねる」
という言葉さえ
必要ないのかもしれません


