すべてはシナリオ①
- 美羽~miu~

- 3 時間前
- 読了時間: 5分
「すべてはシナリオ」――
―――私は、この言葉の意味をわかっていなかった―――
ツインレイと出会った頃から
わたしはハイアーセルフから何度も
【すべてはシナリオ】
と言葉が降り受け取っていました
彼と出会ったことも
シナリオ。
この出会いは
最初から決まっていた。
私はずっと
そう受け取っていました。
だから
彼と出会ったことにも
離れることにも
きっと意味がある。
この出来事も
必要なプロセスなのだろう。
そんなふうにありきたりな理解をしていたのです。
けれど今になって思うのは。
ハイアーは最初から
【彼との出会いはシナリオ】
なんて言っていなかった。
【すべてはシナリオ】
と言っていたのです
≪すべて。≫
彼との出会いだけではなく
離れたことも
彼を求め続けたことも
苦しんだことも
執着したことも
引き寄せを学んだことも
潜在意識を書き換えたことも
ブロックを解放したことも
インナーチャイルドを癒したことも
過去生を視たことも
カルマと向き合ったことも
ツインレイという世界を信じたことも
そのプロセスに疑問を持ったことも
そして今
こうして
【すべてはシナリオ】
という言葉を
もう一度
考えていることさえ。
全部。
全部です。
ハイアーセルフは
最初からそのまんまを伝えてきていた。。
【すべてはシナリオ】って。
私が勝手に
【一部はシナリオ】
くらいの大きさに
変換していただけだった(笑)
「魂のシナリオ」は、そんな小さなものではなかった。。
ツインレイの世界では
【魂のシナリオ】
という言葉がよく使われます。
出会い
サイレント
自己統合
執着を手放す
そして
再会、統合へ。
私はどこかで
魂のシナリオというものを
【ツインレイプロセスを進むための予定表】
のように捉えていたのかもしれません。
けれど
もし本当に
【すべてはシナリオ】
なのだとしたら…?
魂のシナリオは
そんな小さなものではないのです
ツインレイと言われる存在に出逢うことも
その人を愛することで
それまで知らなかった痛みに触れることも
怖れや執着
自分でも気づかなかった思い込みに気づいていくことも
傷つき癒し
潜在意識を書き換え
何度も自分と向き合ってきたことも
怖れながらも
それでも一歩ずつ行動してきたことも
そして
どれだけ自分と向き合っても…
どうしても彼から離れることができなかったことも……
やがて
そのプロセス自体に疑問を持つことも。
そして
ツインレイという枠を
何度も離れ
まったく違うところから
この世界を
眺めるようになることも。
そのすべてが
シナリオなのではないか。
私の人生も
彼の人生も
出会う人も
離れていく人も
これから起こることも。
全部を含んだ
ひとつの壮大な映画。
私は
その映画全体を指しているその言葉を
【ツインレイプロセスのシナリオ】
くらいの大きさに切り取って
理解していたのかもしれません(笑)
魂のシナリオは
そんな小さなものではなかった。
一本の映画
今の私には、この世界が
一本の映画のように見えています。
映画のフィルムには
始まりも
途中も
ラストシーンも
すでに入っている。
けれど
映画の中にいる登場人物は
次のシーンを知らない。
泣いて
笑って
迷って
願って
選んで
行動する。
私たちも
それと同じなのではないか。
もし
彼との出会いが、シナリオとして最初から決まっていたのなら
私はあるとき不思議に思いました。
ではその後は?
出会いだけがシナリオで
そこから先は私の波動や
潜在意識や引き寄せ、パラレルの選択によって
突然、自由制作になるのだろうか。。。
……なんで映画
そこから急に自由制作になるん?
もし、一本の映画なのだとしたら
彼と出会う私も
彼を愛する私も
愛しすぎて苦しむ私も
「この未来を変えたい」と思う私も
潜在意識を書き換える私も
ブロックを解放する私も
その結果
「現実が変わった」
と感じる私も
全部
同じ映画の中にいるのです。
【いまの選択によって未来が創られる】
というより
【選択している私まで含めて、すでに在る】
そんなふうに見えるようになったのです。
これは「何もしなくていい」という話ではなくて、、、
ここまで書くと
「未来が決まっているなら何もしなくていいの?」
と思う人もいるかもしれません。
けれど
私はそうは思っていません。
肉体を持って今を生きている私には
次のシーンは見えない。
だから
願う。
選ぶ。
動く。
傷つけば
自分の内側を見る。
必要なら
ブロックを解放する。
インナーチャイルドを癒す。
人生を変えたいと思えば
そのために
行動する。
それでいい。
というより 【それをする私】 までが
シナリオの中にいるのだと思うのです。
癒す必要のある人には
傷に氣づき
癒していくシーンがある。
行動する必要のある人には
「やってみたい」
という想いが生まれ
動き始めるシーンがある。
立ち止まる必要があるときには
何もしない私が
そこにいるのかもしれない。
だから
【シナリオがあるから何もしない】
ではなく
【いま、自分に現れているものを生きる】
それだけなのだと思います。
ここには
二つの見え方があります。
肉体を持つ
ひとりの人間として見れば
私は
いま選んでいる。
私が決めて
私が行動し
その選択によって
現実が変わっていく。
それは
この世界を生きる私にとって
とても自然な感覚です。
けれど
映画全体を
少し離れたところから眺めるなら
【選んでいる私】も
【行動している私】も
【その結果を体験している私】も
ひとつの映画の中にいる。
どちらかが
間違っているわけではない。
【見ている領域が違う】だけなのだと思います。
すべてはシナリオ②へつづく♡

